日記

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アップルパイの焼き方

チェーンのケーキ屋で3年間アルバイトをしている。楽も苦もなく、ときどきケーキをもらいながら、なんとなく働いている。このケーキ屋に、アップルパイがある。丸いアップルパイを放射状に10等分カットした、シナモンが効いたフィリングがなかなか美味しい、この、アップルパイのこと。

2年前、月ごとに商品を決めて、その商品の特徴を書き出し、悩んでるお客さんに積極的におすすめする、みたいなことが全店舗で行われていた。主に社員の仕事なのだが、特徴を書き出したシートはショーケースの裏に貼ってあり、全員が目を通すように言われていた。例えば、ショートケーキだと、何年の販売総数はいくつで老若男女に愛されています、とか。ナガノパープルを使用したケーキだと、ナガノパープルは糖度いくつで種は無く皮まで食べられます、など。おすすめしやすい無難な文言が並ぶ。

秋、アップルパイの月があった。いつものように出勤して、定位置につき、あ、代わってる、そっか月初めか、と呟きながら、目を通す。リピーターが多い商品で、ショートケーキに次ぐ人気です......うん、たしかに人気......毎週アップルパイだけ買ってくおばあちゃんいるし......ホールでの予約販売も承ってます......そういえばホールは1回しか予約受けたことないかもな......熟練した職人が焼き色を見ながらオーブンで焼いています......熟練した、職人......。オーブンからの熱で赤く照らされた顔に汗がびっしりと浮かんでいる。腕まくりをし、汗を拭いつつ、オーブンの中、アップルパイへ向ける眼光は鋭い。焼き色を確認するために、むやみにオーブンを開けて庫内の温度を下げるようなことは、もちろんしない。オーブンの暖色の光に照らされた姿でも、職人の目には本来のアップルパイの色が映っている。全体がきつね色に、縁はこんがりと茶色に染まってきた、その一瞬、それ、と職人の無駄のない動作の後、立ちのぼる煙の中、黄金に光るアップルパイが美しくそこにある......。

「これって本当のことですか」

問題の一文を指し、社員に聞くと、「それは本部が送ってきたことだし、本当じゃない?」と言われた。なんとまあ適当な。基本的にケーキは店舗に併設された製造室で作っているのだが、アップルパイだけは毎朝工場から2ホール番重に詰められて届く。その番重には府中の工場の住所シールが貼ってあるのを、私は知っている。製造ライン上、等間隔に並んだ大量のアップルパイたちが、この10mのトンネルを通ったら均一にこんがり焼けています、という光景の方が容易に想像ができる。オーブンの熱い光にのみ照らされて浮かび上がる、腕に残る無数の古い火傷の跡や、天板ピールのブナにしっとりと馴染む職人の手指、アップルパイを取り出すのに最適な間隔をとる両足と、それに支えられ正しい動きをする背中と腰は、そこにはない。

にわかに信じ難い、と思いつつ、その日からアップルパイに目をやることが増えた。だんだんと、今日は焼き色が薄い気がしなくもない、とか、今日は明らかに濃いぞ、という日が分かるようになってきた。頻繁に見ていると、日々焼き色に差があるという事実にも慣れてくる。焼き色に差がある、だからなんだというわけでもなく、熟練した職人の妄想は私の中からそのうち消え去った。職人の焼くアップルパイは、ただのアルバイト先のアップルパイになった。

今年3月、あと1ヶ月で社会人になる。この時期、ケーキ屋はクリスマスに次いで忙しい。合格、卒業、入学、引越し......ありとあらゆる出会いと別れにケーキが添えられる。アルバイト先に年中人が足りないのと、自分自身金欠なため、今までよりいっそうシフトをいれて働いている。

アップルパイを2個、と言われ、いつものようにショーケース右端、トングを手に取り屈む。半円状に並ぶアップルパイをトングで挟もうとしたとき、あっ、と小さく声が出た。穴が空いていたのだ。直径2,3mmの穴が、固い縁の弧に沿っている部分、フィリングが入っている部分に、遠慮がちに、ポツとあった。アップルパイに穴が空いていたことなんて、初めてだった。とりあえず、そのアップルパイを避けて、2つ取り、箱に緩衝材やら保冷剤やらを詰めている時、記憶の彼方にあった職人のことを思い出した。そうだ、職人が、中まで焼けてるか確認したんだ、きっとそうだ。でも、今まで穴が空いていたことは1度もなかった。なにか確認しないといけないような事情や背景があったに違いない。もしかしたら、誰かにこの仕事を教えていたのではないか。この、黄金に光るアップルパイの焼き方。このくらいの焼き加減だと、と、職人が竹串を刺して抜くと、うっすらフィリングがついている。良い加減に焼けているように見えるけど、これでは中がまだなんだ、あともう少し焼かないといけない、と職人は言う。オーブンに向けられた眼が暖色に光っている。熟練した職人は、焦らない、見誤らない。小さな穴を通る、黄金の糸を辿り、私は初めて彼の姿に触れた。